節分会
浅草寺境内にて 浅草2-3-1
節分とは1年の春夏秋冬の季節を分ける言葉。なので本来は年4回ですが、現在は立春の前日のみをさしています。
日本では室町時代から、炒った大豆を打って、邪気を払うおまじないとされています。
なぜ、大豆が使われるのか?
魔の目をつぶす、マメで暮らすとかの縁起からだろうと言われています。
この節分の習慣が庶民に流行しだしたのは江戸時代以後のことです。
浅草寺では元禄頃から庶民を対象とした節分会を実行しており、享保頃には江戸中に有名になっていた事が文献で知られています。
浅草寺の節分会の特徴は、「節分般若心経日数所」と記された切紙のお札を10000枚作り、そのうち3333枚を法要後に本堂の棚につり、「節分」と書いた大団扇で煽り撒く行事で、この札を手に入れようととても混雑したといわれています。
現在では、舞台が本堂の外に作られ、午後1時と2時の2回、伝法院より行列を作って進行し、法要終了後、豆撒きを行っています。節分札も危険防止のため、ごく少数がまかれるだけです。
節分会節分会節分会
2011年 節分会 下のタイトルをマウスオーバーすると
画像を見ることができます。


1. 浅草の様子
2. 節分会-1
2. 節分会-2

福聚の舞
浅草寺境内にて 浅草2-3-1
江戸末期~明治初期、猿若三座の1つ市村座では毎日の興行の前狂言として七福神踊りを上演していました。
浅草観光連盟では昭和39年に宝蔵門落慶を記念して復活させました。
恵比寿、大黒のニ神は素面で長唄に合わせ舞い、他の五福神は大きな面篭をかぶって顔を隠し控えます。
福聚の舞 福聚の舞 福聚の舞

針供養
浅草寺境内にて 浅草2-3-1
昔、紀州辺の漁家は2月8日に漁を休み、釣針の折れなどを海底に沈め海神を慰める習俗があったことから、日頃使った針を淡島神社に納め、供養するようになった。
一般家庭の婦女は、仕事を休み針箱の掃除をして、古い針は三宝にのせて、折れた針は豆腐やコンニャクにさして淡島に納めたという。
使い古した針に対し、日頃の感謝の念を表わします。
針供養 針供養

金龍の舞
浅草寺にて 浅草2-3-1

3月18日と10月18日の年2回行われていて2月の「福聚の舞」、11月の「白鷺の舞」と並んで浅草三大舞とされています。
昭和33年の観音本堂完成記念に創始したのがはじまりだそうです。

金龍の舞金龍の舞金龍の舞
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示現会
浅草寺境内にて 浅草2-3-1
「示現」とは、神仏がこの世の人々を救うために種々の姿で現れることをいいます。
浅草寺に伝存する『浅草寺縁起』によれば、推古天皇36年(西暦628年)3月18日早朝、江戸浦(現在の隅田川の下流辺りのこと)で投網を引いていた漁師・檜前浜成(ひのくまのはまなり)、竹成(たけなり)の兄弟が、漁撈の網に一体の仏像を発見します。これを土師中知(はじのなかとも)が拝した際に、聖観世音菩薩(しょうかんぜおんぼさつ)の尊像であると見極め、自ら屋敷を寺に改めて出家。これが浅草寺の草創となりました。
この日のご祈祷では、特別に紅い掛紙を巻いた紅札(べにふだ)が授与されます。

ご本尊を讚えて境内で奉演される「金龍の舞」も、前述の『浅草寺縁起』に因むもの。浅草寺の山号でもあるこの舞は、観音さまのご示現を祝して金龍が天より降りて舞ったところ、一夜にして千本の松林ができたとあることから、昭和33年に本堂再建を記念して創作されたものです。松林に見立てた松児童を先頭に、観音さまを象徴する蓮華珠、これを守護する金龍が続いて練り歩き、お囃子も同行して賑やかに行われます。
ちなみに、ご本尊・聖観世音菩薩像の感得、奉安にかかわった3人が祀られているのが三社権現神社(現在の浅草神社)です。明治の神仏分離以降は5月の行事に変更されてしまった三社祭も、それ以前は3月18日を中心とした祭りであったのも、こうした由来があったためです。
神輿

堂上げ・堂下げ
浅草寺境内にて 浅草2-3-1
ご本尊・聖観世音菩薩像の感得、奉安にかかわった3人が祀られていることより1日目に夜儀として浅草寺の氏子さんにより「堂上げ」が行われ、本堂外陣に一夜お篭もりされた宮神輿三基は、2日目に「堂下げ」され浅草神社へお戻りになります。

【1日目】
浅草神社 神宮神霊入れの儀斎行
神社発進本堂に移御
本社神輿三基 浅草寺本堂前に到着 本堂御扉開扉
「堂上げ」開始
浅草寺一山式衆読経後、手締めにて解散

【2日目】
浅草寺一山式衆読経、浅草神社神宮祝詞奏上
「堂下げ」開始
堂下げ終了後本社神輿三基を本堂正面に並べ、
一礼の後本堂西側を廻り浅草神社鳥居前に安置
本社神輿三基を宝蔵門前へ移御
本社神輿三基 浅草神社へ還御し神霊返しの儀斎行

【堂上げ】
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夜、堂上げ開始

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神主さんとお坊さんのショットは
珍しいですね。

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鳶の方々も…



【堂下げ】
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太鼓の合図で神輿が
一之宮から降ろされる。

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ぐるりと回り
浅草神社へ。

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浅草神社前で三基並ぶ。


また、観音さまに日頃のご加護に対する感謝をささげる「百味供養(ひゃくみくよう)」も、この日に行われます。午前11時40分頃、伝法院門前から百味供養に参加するご信者の練り行列が、浅草寺僧侶の列に続いて本堂に向かいます。これは参加申込みをしたご信者に観音さまにお供えする百種の供物に相当するお菓子を持っていただき、ご宝前(ほうぜん)(ご本尊前)に献じるというもの。正午を期して百味供養の法要が始まり、法会後にはご祈祷札とともに下供(げく)(お下がりのお菓子)が授与されます。

●「百味供養」参加について 浅草寺では毎年3月18日と11月18日に「百味供養」(定員100名)を修しており、その練行列の参加希望者を受付けています。参加者には、特別に作られた記念の輪袈裟・お札・お供物などが授与されます。ご志納金は1万円。お問合わせ・受付は本堂まで。


白鷺の舞
浅草寺境内にて 浅草2-3-1
白鷺の舞は平安時代の風雅を伝えるもので、白鷺をかたどった衣装をつけた踊り子等40名が境内を舞踊ります。
白鷺の舞白鷺の舞白鷺の舞白鷺の舞

流鏑馬
流鏑馬:隅田公園、言問橋上流築山にて
草鹿:東武鉄橋から言問橋の間にて
狩装束に身をつつみ馬上から的を射る流鏑馬が隅田公園で行われます。
鹿の形をした的を射る草鹿も行われます。
白鷺の舞白鷺の舞

早慶レガッタ
隅田川 両国橋~桜橋間
実際のレースは隅田川に架かる両国橋から桜橋間3000mのコースで競われます。
英国のオックスフォード大vsケンブリッジ大、米国のハーバード大vsイェール大の対抗戦とともに「世界3大レガッタ」と言われています。
早慶レガッタは1905年に墨田川向島で第1回大会が開催されて以来、戦争などの中断をはさみながらも、2005年で第74回、100年目を迎えました。
今では、隅田川もきれいになりレースが行われる様になりましたが…。
水質汚濁等の理由で他の場所で開催されていた時期もあったのです。
早慶レガッタ早慶レガッタ早慶レガッタ

泣き相撲
浅草寺にて 浅草2-3-1
赤ちゃんが土俵の上で泣き声を競います。泣いたほうが勝ち。丈夫で健康な子供に育つように始められた。
一般の方でも参加可能です。
当日飛びこみでもピンチヒッターで参加可能かも?!
問い合わせは浅草観光連盟 03-3844-1221
泣き相撲泣き相撲泣き相撲

宝の舞
オレンジ通り→雷門通り→仲見世→浅草寺本堂
昭和47年に七福神にちなみ創始された。幼稚園児が宝船をひき、本堂前に船を囲んで舞をします。
宝の舞宝の舞宝の舞

三社祭
浅草神社 ほか
浅草寺の起源にまつわる3人の聖者を3柱の神様としてお祭りしているのが浅草神社。
古くは「三社大権現」と称され、浅草寺の「観音様」と並んで「三社様」として崇め尊ばれて参りました。
その3柱の神様をお祭りする大祭が三社祭です。
江戸時代は絢爛豪華な山車(だし)が祭の華であったようですが今では神輿が祭の華となっています。
三社祭

町内神輿

三社祭

町内神輿

三社祭

 

三社祭

宮入り(1)

三社祭

宮入り(2)


江戸消防慰霊祭
浅草寺境内/浅草寺消防殉難碑前
江戸時代から昭和初期にかけて火消しや警視庁消防隊員など、殉職した120人の人達の慰霊祭です。
浅草神社の神主によるおはらいと鳶の人達の梯子乗りの披露が恒例となっています。
また、纏を先頭に仲見世、宝蔵門、神社までのあいだ鳶の人達による勇ましい纏の演技が見られ、木遣りの声が浅草寺周辺に響き渡ります。
江戸消防慰霊祭江戸消防慰霊祭
江戸消防慰霊祭

纏(まとい)

江戸消防慰霊祭

消防庁ブラスバンド

江戸消防慰霊祭

まさに!圧巻!!

江戸消防慰霊祭 江戸消防慰霊祭 江戸消防慰霊祭
江戸消防慰霊祭

朝顔まつり
真源寺(入谷鬼子母神)にて 下谷1-12-16

鬼子母神で買う朝顔はご利益があるとか?!

宝の舞宝の舞

下町七夕まつり
かっぱ橋本通り商店街にて

パレードあり、大道芸あり、フリーマーケットあり、ふれあいギャラリーありです。

下町七夕まつり下町七夕まつり下町七夕まつり

四万六千日・ほおずき市
かっぱ橋本通り商店街にて

観音さまの縁日は毎月18日としてされていましたが、それとは別に「功徳日」「欲日」とも呼ばれる縁日が新たに中世以後に加えられ、それは、その日に参拝すれば100日分、1000日分にも相当するご利益が得られるというもの。中でも7月の功徳日はその日数が最も多いことから、観音さまの威神力を頼る人々が群参し、「四万六千日(しまんろくせんにち)」という縁日名で広く知られています。
さらに「四万六千日(しまんろくせんにち)」に「ほおずき」の市が立つようになり、賑わうようになった。
こうして本来7月10日であった功徳日も大晦日のように次第に9日・10日の両日が縁日となった。
また、縁日の特徴として、浅草寺では、普段とは異なる「黄色の祈祷札」および「雷除け」のお守りが授与されます。

ほおずき市ほおずき市ほおずき市ほおずき市

隅田川花火大会
第一会場:桜橋上流~言問橋上流
第二会場:駒形橋下流~厩橋上流

1732(享保17)年、中国大陸から渡ってきた「浮塵子(うんか)」という害虫が西日本一帯に大発生し、農作物が大きな被害を受けました。これが100万人とも言われる餓死者を出した、いわゆる「天保の大飢饉」の元凶となったのです。運悪く、同じ頃に江戸ではコレラが大流行し、多数の死者を出す惨事となっていました。
8代将軍徳川吉宗は、このあまりに不運な年の災厄を打ち払い死者の霊を慰めるため、翌年1733(享保18)年旧暦の5月28日、両国で「水神祭」を挙行しました。同時に隅田川両岸の水茶屋が大々的に「川施餓鬼」を催したので、いっそうにぎやかなお祭りになりました。この時に打ち上げられた20発の大花火が、隅田川の花火の始まりと言われています。花火師は鍵屋6代目篠原弥兵衛と記録されています。
以後、大花火は「両国の川開き」のメイン・イベントとして江戸の恒例行事となりました。

ひととき、中断されていたが昭和53年から再開。

隅田川花火大会隅田川花火大会隅田川花火大会
隅田川花火大会隅田川花火大会隅田川花火大会

台東薪能
浅草寺境内にて 浅草2-3-1
(雨天の場合は、浅草公会堂)

薪能のルーツは、奈良・興福寺の修二会(ルビ:しゅにえ)を母体とした御神事能であり、薪を焚いて、南大門般若の芝と春日若宮で行った薪猿楽(ルビ:たきぎさるがく)にあります。当時は旧暦の2月11・12日に行われていました。夕方から夜にかけて薪を焚いたことから薪能と呼ばれるようになったのですが、舞台の雰囲気を盛り上げる薪は御神火でありながら照明もかね、またこの寒い時期に暖をとるために使われていました。
修二会はもともと、国家の安泰を祈って行われていた神事であり、罪や穢れを現わす悪鬼を恐ろしい形相の善鬼が追い払うという追儺式(ルビ:ついなしき)では、仮面をつけて善悪ニ役の鬼を演じました。能はこのような経験を経てしだいに芸能的な色合いを濃くし、鎌倉時代末期には今日の能の原型が生まれたのです。
特に、徳川幕府が能を式楽(儀式のときに演奏する音楽のこと)として保護したこともあり、江戸時代に薪能は絢爛豪華を極めますが、その命脈も明治維新とともにつきることに。長い間、復興のきざしもなく中断されていましたが、昭和24年にようやく春日若宮の御社上り(ルビ:みやしろあがり)の能が復活。ついで昭和27年に南大門の薪能も古儀にのっとる形で復活し、現在では毎年5月11・12日に行われています。
その中で今日の薪能の先駆的存在となったのは、京都能楽会の提案によって昭和25年に始められた平安神宮の京都薪能です。今や薪能には欠くことのできない「火入れ式」も、オリンピック開会式の聖火の点火にヒントを得てこの時初めて行われたもの。この京都薪能の成功がきっかけとなり、古社寺の境内や城、野外能舞台で、杉木立に囲まれた場所で、桜の花の下で、あるいは海を臨んでと、全国のさまざまな場所で行われるようになりました。
場所や季節はさまざまであっても、演者と観客がともに自然のなかに溶け込み一体となっていく感覚は、能楽堂で見るものとはまた違った幻想的な魅力にあふれています。闇の中に炎が舞い、月の下で虫が鳴き、風がゆっくりと流れていく自然が作り出す舞台の中で繰り広げられる幽玄の世界は、まるで千年の時を超えたかのような気持ちにさせてくれます。

●「能」って?
「能」は日本が世界に誇るに足る最古の舞台芸術で、室町時代初期に観阿弥・世阿弥父子によって大成されました。以来、六百年以上に渡って演じられ続け、世界無形遺産に指定されています。
能の中心にあるのは、時代や国によって変わることのない喜びや悲しみ、怒り、恥じらい、絶望といった人間そのもの、情念そのもの。そうしたドラマを、さまざまな要素が絡み合ってひとつの舞台を構成しています。それ自体が美術品としても価値の高い能面や能装束が、役者が身につけ演じることで活き活きと自己を主張しはじめるさま。謡(ルビ:うたい)と囃子の情緒的な音楽美。抽象的な型や具象的な型を取り混ぜての舞踊的な面白さに、能舞台や作り物といったすべての要素が一体となり、最小限の動きで静かに荘重に演じ、最大限の感動を呼び起こすという逆説の手法で舞台表現されています。
能の構成・演出は、古来より五番立(ルビ:ごばんだて)といわれる「神・男・女・狂・鬼(しん、なん、にょ、きょう、き)」の番組構成ですが、今日の能の公演では「能1~2番、狂言1番」という組み合わせが多くなっています。能と狂言は別の演劇でありながら、同時に2つで1つであり、能の荘重で緊張性の高い舞台に対して、狂言は主に笑いの世界を描いています。


浅草サンバカーニバル
馬道通り(朝日信用金庫前)
~雷門通り(すし屋通り入口)でパレード行進
リオのサンバカーニバルの浅草版。
浅草サンバカーニバル浅草サンバカーニバル浅草サンバカーニバル
浅草サンバカーニバル浅草サンバカーニバル浅草サンバカーニバル

聖天まつり
待乳山聖天にて 浅草77-4-1
今戸橋の南、隅田川西岸の小丘が待乳山。
寺号は本竜院、浅草寺の末寺で「聖天さま」と呼ばれている。
浅草七福神巡りの昆沙門天。
浅草寺とほぼ同じころに創建されたという古社です。
本尊は象の顔をした歓喜天双身像で秘仏。
夫婦和合、商売繁盛、にご利益がるあるという。中でもビックリするのが本殿正面の大根の図柄。巾着とともにこの神社ののシンボルである。
千客万来の招福猿(1000円)、お供え用の大根もあります。
拝観自由。

菊供養/金流の舞
浅草寺境内にて 浅草2-3-1

供華会とも称し、信者たちが菊の花を供えて、加持祈祷を受けた菊と交換して持ち帰ります。当日、金龍の舞の奉納もあります。

●「金龍の舞」って?
3月18日と10月18日の年2回行われていて2月の「福聚の舞」、11月の「白鷺の舞」と並んで浅草三大舞とされています。
昭和33年の観音本堂完成記念に創始したのがはじまりだそうです。

金龍の舞金龍の舞金龍の舞
こちらで動画が見れます!

浅草菊花展
浅草寺境内にて 浅草2-3-1

特設会場には盆養、大作、懸崖、盆栽等約1000点が展示されます。

浅草菊花展

白鷺の舞
浅草寺境内にて 浅草2-3-1

白鷺の舞は平安時代の風雅を伝えるもので、白鷺をかたどった衣装をつけた踊り子等40名が境内を舞踊ります。

白鷺の舞白鷺の舞 白鷺の舞
白鷺の舞白鷺の舞白鷺の舞

東京時代まつり
浅草馬道通り~雷門通りにて 浅草2-3-1

江戸の始まりから現代までの歴史を再現する時代絵巻行列です。浅草観音示現、家康の江戸入府、鹿鳴館時代、浅草レビューなど。

○○ 東京時代まつり絵巻 ○○

20071103撮影

酉の市
鷲(おおとり)神社にて 千束3-18-7

酉の市に行うので「お酉さま」ともいいます。熊手が「かっこむ」「とりこむ」などの縁起と結びついて商売繁盛を願う祭りです。はじまり当初は、農民の農具だった市も、江戸時代になり縁起ものの熊手を商う市に変わりました。「酉の市で買った道具は魔除けになる」という精神があり、福を掻き込む熊手だったわけです。
鷲(おおとり)神社には、200余りの熊手屋と露天が出店します。
深夜0時に打ち鳴らされる「一番太鼓」を合図に始まります。
樋口一葉『たけくらべ』に取り上げられるなど有名な「お酉さま」です。

>>鷲神社公式ホームページへ

酉の市酉の市酉の市

花川戸はきだおれ市
花川戸公園にて 花川戸1-15

近隣の靴・履物問屋が地場産業の活性化を目的とし、靴・履物やバッグなど数10万点の商品を安く販売します。

花川戸はきだおれ市花川戸はきだおれ市花川戸はきだおれ市

羽子板市
浅草寺境内にて 浅草2-3-1

歳の市とも言われ、装飾用の大きいものから子供用まで様々な羽子板が揃っています。
昔は師走の東京の各所に羽子板市が立ち、女性たちはひいき役者の当り狂言の羽子板を求めたとのことです。
毎年十二月に浅草寺でおこなわれる「羽子板市」がはじまったのは万治二年(一六五九年)。
花鳥風月や殿上人、左義長(悪魔を払う正月の儀式)を描いた羽子板は、江戸時代後期、歌舞伎の興隆とともに、役者絵を押絵を用いて取りつけるようになり、現在にいたっています。

羽子板市羽子板市羽子板市
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