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2003年11月22日・23日に猿若町にて、「浅草猿若町を再発見」と題して
『猿若町展』と『猿若町ウォーク』が開催されました。
“浅草い〜とこ”特派員は天気のいい秋晴れの中、22日に参加してまいりました。
楽しいガイドとともに昔の猿若町、芝居の町に触れてきましたので、紹介させていただきます。

添乗員
当日、楽しくわかりやすいガイドをしてくださったのは台東区ボランティアの代田さん

猿若町の由来
この猿若町は、江戸時代の終わり頃(1841年)時の老中 水野越前守(えちぜんのかみ)の命令で、江戸中の芝居小屋をここ一ヵ所に集めるために新しくつくられた町でした。
当初は、芝居小屋を廃止させることを考えていましたが、北町奉行・遠山左衛門尉景元(俗に遠山の金さんと言われた人物)の献言により一ヵ所に集めて取り締まりを強化する方針に変更されたと言われています。
だんだんと町ができあがり、大きな三つの芝居小屋(中村座、市村座、河原崎座)を中心に他に小さな芝居小屋も集まって、江戸の娯楽の中心地になりました。

画像
江戸猿若町守田座碑

画像 江戸猿若町市村座碑

画像 画像 白岩稲荷

画像 浅草猿若町碑

老中
江戸幕府の中で、いつもおかれている中では最高の役職でした。将軍に直接任命されて、三奉行(寺社奉行・勘定奉行・江戸町奉行)や大目付を指揮して政治を動かす最高責任者でした。定員は、4〜5名で月番を決めて交代で政治を行っていました。

水野越前守忠邦(みずの えちぜんのかみ ただくに)1794〜1851
江戸時代の終わり頃には、商工業は大変発達して利益を独占しようとする大商人の動きが盛んになったりしましたが、農村では飢饉も重なって、町でも村でも貧富の差が大きくなっていました。このため、物価が異常に上がったり、反乱や百姓一揆、打ちこわしといった混乱が起きていました。
そこで、老中になった水野忠邦は、(1)幕府内部の質素倹約、(2)庶民生活の統制、(3)農民の都市流入抑制、(4)経済安定策を目標として政治を行いました。
この様な政治の新しいやり方を天保の改革といいましたが、やり方が急すぎたことや改革の内容が実際に状態にあわなかったことがあって、うまくいきませんでした。
猿若町は、この改革の中で特に(2)庶民生活の統制を目指し、奢侈取締・風俗粛正策の一環として誕生したのです。

町が出来る前の猿若町は?
大名屋敷になっていました。当時の大名は、殿様が普段から居て家来も大勢住んでいる上屋敷(かみやしき)を持っているほかに、別宅として中屋敷・下屋敷(しもやしき)を持っていました。
猿若町には、今の京都府の方に領地があった小出氏の下屋敷があったのですが、幕府は、芝居小屋を集中させる広い土地が必要であったため、この下屋敷を取り上げて町をつくったのです。
※小出氏は、丹波園部藩主(2万6千711石の小大名)で、当時の当主は「小出伊勢守英発」という人でした。幕府は、この代替地として雑司ヶ谷に、より広い敷地を与え、引越し料白銀三百枚を下賜しました。
芝居小屋はどこから移ってきたのだろう?
江戸の町屋(町人のための市街地)にばらばらにあったのですが、現在の地名でいうとどれも中央区の中です。堺町・葺屋町・木挽町から移ってきました。
天保十三年から十四年(1842〜1843)にかけて、相次いで移ってきました。
芝居小屋の配置は?
一丁目 中村座・薩摩座 堺町(現・人形町)から移転
二丁目 市村座・結城座 葺屋町(現・人形町)から移転
三丁目 河原崎座 木挽町(現・銀座東)から移転
後に守田座さらに森田座へと変わりました。
この内、中村座、市村座、河原崎座の三つが規模も大きく、芝居櫓を官許されていたので、「猿若三座」と呼ばれました。また、他の二座は、人形芝居を出し物にしていました。
芝居小屋を集めた目的が風俗の取り締まりと火災予防だったため、猿若町の周りは掘り割り(小川のようなもの)で囲まれていて、木戸を通らないと中へ入れない仕組みになっていました。また、木戸は、日没と共に閉められていました。
芝居小屋の周りにはたくさんの芝居茶屋があって、見物客はこの茶屋にあがって飲食等をしてから芝居見物に行きました。
裏通りには、役者さんや音曲を出す仕事の人、その他芝居に関係する人々の住まいがありました。これらの人々は、士農工商の四段階よりも下の階級の人間とされ、一般の人々との交流も出来ないことにされていました。
芝居は何時頃から見ていたのだろう?
当時は電気がなかったので、照明の関係で芝居小屋は吹き抜けになっていて、(屋根の一部が明かり取りするように開いている構造)外の太陽光線を利用していました。歌舞伎の出し物によっては大変長い時間かかったので、観客はまだ暗い内から芝居小屋の周りに多くあった芝居茶屋へ行って、飲食をしたり芝居の話をしながら待っていて、芝居の開始からずっと見ていたようです。
芝居はどんな人々が見ていたのだろう?
江戸時代には、庶民の娯楽と呼べるものは大変少なく、わずかに歌舞伎芝居、人形浄瑠璃芝居、浮世絵、大衆向けの貸本等があるくらいでした。なかでも歌舞伎芝居は、人気作家が登場したり、人気役者が多く出て、猿若町の芝居小屋は大変なにぎわいを見せました。
当時のお金持ちである大商人や役人たちは頻繁に芝居見物に通いましたが、彼らは芝居の度に着物を新調し、大川を船で下り芝居茶屋を使って、三日がかりの豪勢な芝居見物をしていたと言われています。
一方、一般庶民は木戸銭(見物料)が高くて、なかなか芝居見物もできませんでした。それでも、たくましい庶民は、芝居見物のために何ヶ月もお金を貯めて、当時の錦絵や浮世絵に描かれた人気役者を一目見ようと芝居見物に来ることに憧れていたのです。
その結果、この時代に完成された歌舞伎芝居は、町人文化の代表として定着し、現在まで伝えられているのです。
猿若町の名前はどうしてつけられたのでしょう?
江戸歌舞伎芝居の始まりといわれる猿若勘三郎(江戸時代始めの寛永1624年頃の人)の名前から、つけられたといわれています。
猿若勘三郎は、「猿若」という名の歌舞伎狂言をつくり、中橋(今は中央区内)と言うところに猿若座を開きました。ですから、猿若町の名は、この狂言の名前から付いたものだという説もあります。この猿若勘三郎は、今の歌舞伎の名門・中村勘三郎の先祖に当たる方です。
芝居小屋が去った後の猿若町は?
明治十年頃までに芝居小屋は各地に移転し、二十数年間にわたる賑わいは終わりました。その後、比較的閑静な落ち着いた町になりましたが、大正の頃から履物屋が多くなり、以後鼻緒・装履・サンダル・靴・皮革等を扱うお店が並ぶ現在の町へと発展してきた。それでも、戦争前頃までは、役者さんの家が何件かあって、十数年前に亡くなった沢村貞子さんは、猿若町で生まれ育った人でした。また、現在では、芝居小道具を扱う藤波小道具店がわずかに昔の芝居町の名残をとどめていますし、市村座後の碑・守田座跡の碑が町内に建てられています。
資料提供:猿若町再発見実行委員会

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