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今年も三社祭の季節がやってまいりました。
「浅草い〜とこ」では、今年も昨年とは違った角度で三社祭を特集していきます。
トピックスをぜひご覧ください。

提灯 2001三社祭りスケジュール詳細&神事紹介
詳細スケジュールを公開します!おすすめスポットもありますよ!
提灯 三社祭り今昔物語
昔と今の三社祭の違いや昔話を紹介します。
提灯 2001動画配信
5/20の宮出し/町内渡御を4時間後にアップします。行けない方もサイトで体験してください。
提灯 2001三社祭り後記
今年の三社祭を振り返ります。

今昔
昔の三社祭を語るには、まず浅草寺の歴史から…

浅草寺は628年3月18日早朝、漁師の檜前(ひのくま)浜成(はまなり)、竹成(たけなり)の兄弟が隅田川で漁労していた時、網に観音像がひっかかり持ち帰ったことに始まります。なんと大化の改新以前なんですね。 舟から陸に上がったところが今の駒形橋のたもとの駒形堂(こまがたどう)があるところです。
槐の木(現在、三社様の神輿蔵と神楽殿の間にある木がそうです)のきりかぶに観音像を置いて、土地の文化人土師真仲知(はじのまつち)に知らせたところ、これは尊い観音像だということで、その後、自分の屋敷を改造して、出家し観音像をお守りしたのが浅草寺の始まりです。
この浅草寺創建に関わる3人(浜成、竹成、仲知)を奉ったのが浅草神社(三社様)です。
世間一般では神社と寺は全く別物のようですが、浅草寺と浅草神社の場合はこのゆかりからして切っても切れない間柄なのです。
正和元年(1312年)に祭は始まり、正和8年(1319年)には舟祭も始まったとされており、観音祭、浅草祭とも呼ばれていました。
もともと三社祭は、浜成、竹成が観音像を拾い上げた日にちなんで3月17・18日に行われていました。
今でも3月18日には浅草寺、浅草神社で「示現会」という祭りを行っています。
祭りは6月に行われたこともありましたが、気候がいいということもあり5月に落ち着いたといわれています。
昔の3月パターンの祭を紹介いたしましょう。まずは3月15日の神輿洗という神輿を洗う儀式からお祭りとしていました。
3月17日は、社殿のわきに幟がたち、その外側に四神旗(四方を指す神名と色/せいりゅう、びゃっこ、すじゃく、げんぶ/緑、赤、白、黒)がたてられました。 また、朝10:00になると拝殿に3つの神輿が(右:一の宮、左:三の宮、中:二の宮)入れられました。
現在は、入りません。
今の浅草神社社殿は、三葉葵、3代将軍家光公が建てられたもので、神輿ももちろん家光が寄進したものがありましたが、浅草寺本堂もろとも東京大空襲で焼失してしまい、かろうじて浅草神社社殿とニ天門が残りました(いずれも重要文化財)。
お寺と神社の密接な関係は祭にも現れていました。浅草寺から6名のお坊さんが来て、お経を読み上げ、僧侶の大太鼓だけで御霊家入れが行われたといいます。
次に、神輿を浅草寺の本堂にあげる、お堂あげが行われました。役見世という仲見世かいわいと奥山の商人29名で行われたといいます。
浅草見附(浅草橋のたもと※大きい街道から江戸に向かうときにくぐる門が見附)に氏子18ヶ町の山車(だし)が集まり、御蔵前〜諏訪町〜並木町〜仲見世〜境内に入って本堂の神輿前に参詣し、山車ごとに芸をやり、二天門をくぐって外へ出て帰るのが習いであったそうです。
今の祭は神輿が中心ですが、昔は山車が中心だったんですね。町に電線が張り巡らされるようになって以降、次第に山車は姿を消していきました。時の流れですね。
18日朝、今度はお堂下げといって、逆コースで浅草見附へ。
舟祭は観音像を川から拾い上げたことにちなんだ祭で大森の漁師の供奉する舟に神輿を乗せて手こぎで下流→上流、駒形にあげて、そこから神輿を担いで行ったといいます。
なぜ、大森の漁師かというと当時隅田川近くでの漁が禁止されていたのでわざわざ大森から15両(現在で概算すると1両=75000円で1125000円)をかけて漁師を呼んでいたそうです。
三社の紋は三網ですが、これは漁師の浜成・竹成にちなんだものです。今の三社祭でも浅草神社のみならず、氏子町内の随所で網印の半纏や浴衣を目にします。今もその伝統が生きているんですね。
昔は今のように毎年本祭ではなく、丑、卯、巳、羊、酉、亥が本祭で一年おきで、それ以外は陰祭といって、本堂のまわりを担ぐだけで境内から出てはいけなかったといいます。

今の三社祭もにぎやかさでは、昔と変わりません。
現在は氏子四十四ヶ町と浅草組合で構成される浅草神社奉賛会により運営されています。

交通事情や各町の情勢変化で5月17・18日という日にち固定の大祭が難しくなり、昭和18年から17・18日に近い金曜日に神輿御霊入れ、土曜日に氏子各町神輿連合渡御、3日目に本社神輿の各町渡御、例大祭式典、びんざさら舞奉納となりました。

ちょっと前までは神輿は男しか担げませんでした。また、神輿渡御を2階の窓ごしに見ているだけで「神輿を上から見てはだめだ」と町衆に叱られたものでした。「わっしょい」も「せいや」にかわりました。
時節が変わり、今は男も女も老いも若きも誰でも各町会に属していれば担げます。外国人の担ぎ手もいます。それもまた祭りの楽しみであり祭本来の姿でもあるでしょう。
でも歩道橋の上から真下を通る神輿を見たりするのはやはり止めたいですね。祭や神輿への敬意は無くしてほしくない伝統です。
楽しいだけ、何でもありの祭ではなく参加する人や見る人にも祭りのモラルやルールが必要だと思う今日この頃です。
今年の三社祭もいいモラルで皆んな楽しく神輿を担ぎましょう。

懐かしい
昭和9年生まれの岩崎さんの三社祭の思い出を語っていただきました。
当時、伝法院近くにお店がありました。
今とは違って、とても素朴でのどかな地元の祭だった。
車もそんなに通りませんし、地元の人が集まってるという感じで 規制もそんなにありませんでした。
子供神輿の山車のひもをひっぱって歩くのが楽しかった。
今でもある中清ではアイスクリームが子供たちに配られ、当時アイスクリームはとても珍しかったので、とても楽しみだったといいます。
子供は、皆、浴衣で山車引きや神輿をかつぎました。
当時、子供神輿をかつぐのは男の子だけだったそうです。
浴衣は、各町内でお揃いの柄。三社さんだけに網の模様が多いです。
観音様が網であがったことからかと思います。
しかも、毎年違う柄だそう。(右写真参照、昭和39年当時)
それぞれの家で、反物を注文してお母さん、おばあちゃんが縫ってくれるんだそう。
戦後ずいぶんとその風習はあったそうです。
今では、注文する人がいなくなり、なくなったそうです。
掛け声は、今こそ「セイヤ!セイヤ!」ですが、戦後しばらくは「ワッショイ!ワッショイ!」でした。
一世風靡セピアというグループが出たころから何でしょうか?
お囃子も大人で今のように子供がやることもなかったそうです。
祭といえば、出店。昔も今も子供の楽しみは同じ。
岩崎さんは、「ぬりえ屋」さんがとても楽しみだったという。
いろんな種類のぬり絵が、一面に広げられ売っていたのだそう。
女の子は、あれもってない、これもってない、と集めていたそうです。
男の子は、山吹鉄砲(竹でできた音の出る鉄砲)やベーゴマで遊んでいた。
戦後しばらくは、女の子が神輿をかつぐことはなかったそうです。

掛け声の「セイヤ!セイヤ!」と女の子が神輿をかつぐようになったのはいつからなのでしょう?ご存知の方がいたらご一報ください。

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