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お笑い浅草21世紀 エノケン生誕100周年記念公演『君恋し』

歌あり、踊りあり、笑いあり!
お笑い浅草21世紀がお届けする
爆笑軽演劇「君恋し」
公演迫る!!

本番2週間前突撃レポート

君恋し
@エンターテイメント情報
@チケットプレゼント

1998年、座長の橋達也さんが、若手のエネルギーで浅草を盛り上げようと旗揚げしたお笑い浅草21世紀。
結成以来、浅草・木馬亭で毎月8日間、興業を行っている。橋さんは、舞台という実践の中で若手を鍛えあげてきた。
そんな浅草21世紀が、今度の10月公演【10月17日(日)〜24日(日)】で、古き良き浅草の華・オペレッタに初挑戦することになった。
演目の「君恋し」は、昭和9年1月、浅草松竹座で上演された作品。当時、喜劇王と言われたエノケンこと榎本健一が出演し、大評判を呼んだ。また、劇中で二村定一が歌った「君恋し」が流行歌となった。(昭和36年、フランク永井がカバーし、再び大ヒット曲となる)。今回、当時の台本を座付脚本家の京田勝馬さんが潤色。おりしもエノケン生誕100周年という節目にあたり、昨年から今年にかけて各地でエノケンに関するイベントが行われていて、これまでお笑いには関心のなかった演劇ファンも、本作品には注目している。

公演まであと2週間と迫った10月2日、熱気あふれる稽古場におじゃまして、お話を伺うことができた。
「なにしろ、お笑いの若い連中はオペレッタなんてやったことがない。歌もヘタクソ。でも、やる気は満々です。技術の未熟は熱意でカバーですよ」と座長の橋さんは笑う。
座付き脚本家の京田勝馬先生も大きくうなずく。
「昭和8年という舞台設定はそのままに、できるだけ当時のエッセンスを忠実に甦らせたいと、故・菊谷栄先生の脚本に手を入れました。ただ、音楽やダンスについては当時の楽譜や録音・録画が残っていませんので、音楽は今回新たに花岡詠二さんに作曲してもらいましたし、ダンスはかがわみえさんに振り付けてもらいました。また、当時は浅草松竹座という大きな舞台で演じられていたものを、今回は浅草木馬亭というお客様と近い小規模な舞台で上演するため、演出も当時とは違ってきます。そんな中で、当時のオペレッタの雰囲気、楽しさをどこまで出せるか。それは、一重に若手の熱意にかかっていると言っていいでしょう」京田さんは、03年11月からお笑い浅草21世紀の座付脚本家を務め、これまで19作のオリジナル爆笑軽演劇を提供してきた。今回は20作品目となる。昭和4年にエノケンが舞台を踏んだ浅草木馬亭で、かつてのエノケンのヒット作を上演するとあって気合も入る。
「すでに完成された作品をアレンジするのは、私にとっても難しい挑戦でしたが、原作の著作権を管理している方が、どうぞお好きに、ご自由にアレンジしてくださいとおっしゃってくださったので、こうして形にすることができました。昭和8年の世界を、70年を経 た今のお客様に、違和感なく観てもらえたらうれしいですね」

稽古風景
熱気あふれる稽古風景。

さて、気になるストーリーはこんな感じ。

時は昭和8年、画家のベエちゃんと健ちゃんが帝展に出品する作品のためのモデルを探している。するとダンス教室のフジタが、いさ子のことを話す。ベエちゃんと健ちゃんは早速いさ子を訪ねる。いさ子はベエちゃんのモデルになる。ところがいさ子は絵の完成間近に母の借金返済のために、友人ユリイの世話で港の女になってしまう。ベエちゃんは落ち込むが、いさ子の妹みつ子の真心やフジタ、マダム五味、健ちゃんらの協力で、ついにいさ子を救い出す。

オリジナル版は、ベエちゃんを二村定一が、健ちゃんをエノケンが演じている。
今回、座長の橋さんは、ベエちゃんを演じる。橋さんは、
「当時の役者さんは、舞台にすべてをかけていた人たちです。同じものを目指したらかなうわけがないと思う。でも、自分なりに、やれることを精一杯やるつもりです。お笑い浅草21世紀にとっても、今までにない華やかで楽しい芝居になると思いますので、どうぞ皆様、ぜひご覧ください!!」
と熱く語ってくれた。
 本番まであとわずか。浅草によみがえるお笑い浅草21世紀版「君恋し」が、今から楽しみだ。

橋達也さんプロフィール
1963年、浅草東洋興業に入座。新宿ミュージカルホール、池袋フランス座、浅草ロック座において軽演劇を学ぶ。68年、花かおるとコンビを組み「ダメナノネ〜、ダメナノヨ〜、千葉の女は乳しぼり」などの流行語を生む。74年、コンビ解散後、コメディアンとして一人歩きを始める。NHKお笑いオンステージ、おはよう子供ショーにレギュラー出演。88年劇団「ミニキャンプ」を旗揚げ。98年「お笑い浅草21世紀」をスタート。後進の指導に力を注ぐ。

榎本健一
1904(明治37)年、東京青山に生まれる。役者を志し、浅草の人気劇団・根岸歌劇団の歌手・柳田貞一に入門、同歌劇団のコーラスボーイに採用される。しかし、関東大震災で浅草の劇団が壊滅し、根岸歌劇団も自然消滅。小遣い稼ぎのため京都嵐山で仲間と野外コントを上演。これが喜劇役者としての原点となる。1929年、浅草公園水族館の2階で榎本が 結成した「カジノ・フォーリー」が評判を呼び、客席は連日満員に。その後、舞台を浅草観音劇場、玉木劇場と移動して、やがて浅草オペラ館で「ピエル・ブリリアント」を結成。
この劇団で松竹と専属契約を結び、浅草や新宿の松竹座に出演するようになると、さらに知名度も人気もアップする。
戦後は焼け野原になった浅草に代わって日比谷の有楽座で活動開始。ブギウギの笠沖シヅ子との共演が大衆に熱烈に支持され、黄金期を迎える。
大病を患い右足の指の切断という試練を経て53年から活動再開。55年秋、柳家金五郎、古川ロッパと組んで「アチャラカ誕生」を上演し、喜劇の新時代を作る。この舞台には三木のり平、トニー谷らもいた。
その後も精力的な活動を続け、紫綬褒章を贈られる。62年、病が進行し右足を切断するも義足をつけてTVや舞台で活躍。1970年1月に亡くなるその直前まで、生涯一役者でありつづけた。享年65歳。

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