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日本人によるオペラ初上演から100年…
浅草テプコ館で開催された『浅草オペラの時代』展
をご紹介します!

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『浅草オペラの時代』ミニ知識
帝劇オペラ
帝国劇場は日本を代表する国際的な劇場を目指して明治44年に開場しました。翌年8月、大正と改まってすぐに振付家ローシーが着任し、10月には無言劇「犠牲」を上演しました。ローシーは舞踊だけでなくオペラ、オペラッタも手掛け、早くも大正2年には「夜の森(ヘンゼルとグレーテル)」、「マスコット」を上演、これ以降はオペレッタが中心となっていきます。 大正3年には「天国と地獄」を初演、大正4年には「古城の鐘(コルヌビルの鐘)」を初演、松本幸四郎がガスパールを演じて評判を呼びましたが、興行としては困難が多く、大正5年には洋劇部を解散し、日本で最初の商業オペラはその短い歴史を閉じました。

ローヤル館
大正5年5月の公演を最後に帝劇の洋劇部が解散した後、ローシーは赤坂見附にローヤル館を開場し、独自にオペラ、オペレッタの公演を始めました。本格的オペラを目指しましたが経営は苦しく、主立った歌手達も最後には離れて行きました。 大正7年2月の「椿姫」を最後にローヤル館は閉鎖。ローシーはその翌月浅草オペラの盛況を横目に見ながら、日本を去っていきました。

ローシー
ジョヴァンニー・ヴィットリオ・ローシー(1867?)はイタリア生まれの舞踏家、振付家。ロンドンで振付師をしていたのを帝劇でスカウトされ、大正元年8月明治天皇崩御の直後、夫人とともに来日。帝劇では、オペラ・オペレッタも上演し、日本人とってはじめてのレパートリーと言えるものをもたらしました。

ペラゴロ
「ペラゴロ」とは、当時浅草オペラに熱中したファンのことです。ごろつきから来たとも、ジゴロから来たとも言うが定かではありません。 有名なペラゴロには小説「浅草の灯」を書いた浜本浩、サトウ・ハチロー、今東光らがおり、その弟の今日出海、徳川夢声、東郷青児らも楽屋に出入りする常連だったそうです。谷崎潤一郎は大正9年に発表した小説「鯨人」の中で、浅草に暮らす人の姿を生き生きと描いています。 川端康成も浅草オペラのファンで、「浅草紅団」という小説がありますが、これはオペラより後のレヴュー全盛の頃を舞台にしています。 また、宮澤賢治も確証はないのですがペラゴロだったのではないかと言われています。

創作ミュージカル
浅草オペラの幕開けを飾ったのは、伊庭孝作の「女軍出征」です。また、佐々紅華作の「カフェーの夜」も大ヒットとなりました。いずれも親しみやすい流行歌などをアレンジして、楽しいミュージカルプレイに仕立てたものです。 これら以外にも浅草オペラの舞台ではさまざまな演目が試みられました。 少女歌劇、お伽歌劇、「勧進帳」など古典のアレンジ、創作色の強い舞踏劇「沈鐘」や歌劇「釈迦」等々。 名作オペラ、オペラッタを数多く上演したことも浅草オペラの成果には違いありませんが、これらの創作活動もまた重要な要素の一つと言えるでしょう。

協力
テプコ浅草館

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